蛇にピアス★★★★〜流され生きるということ〜

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 流され体質で充足感も責任感も抱けないため、異世界的空間を求め、時に酒や人体改造で現実逃避に走るも、コミュニケーション能力でその気質が隠されており、他人にはわかりにくい。そんな若者を吉高由里子が好演。「リアリティ」から逃げ続けているから「理由」や「目的」も見つからない。だから「結論」も出ない。得ては、失い続けてゆく。

【ネタバレ感想】
 なんで、ルイはアマに出自やステータスを聞かないのか。言わないのか。それは、彼女が抱く「生への恐怖と希死感」ゆえではないか(アマも同様)。「真面目に生きること」、と言われる行為のスタートは「目標を立てること」だ。自分が無いだの、やる気が無いだの言われがちなルイのような若者は、それが出来ないのだ。別に学習能力やスキルが低いわけではない。だから怠けているように見え「なんで出来るのにやらないんだ」、と怒号を飛ばされる。けれど、そもそも「自身の生涯の為の目標を考えること」が難しいのだ。根本的な自信が無いから。その自信の無さ、自己評価の低さはシバとのやりとりに表れている。
 −「いくらかかる?」「エッチ一回」「そんなんでいいんだ。」

 生への恐怖を、異世界的体験を授けてくれる恋人・アマによって紛らわせていたルイ。彼のことを愛してはいたが、恋人として責任感は持てない(=自分は相手のことを愛している、と自分自信に言い聞かせることが出来ない)から、シバに誘導され浮気してしまう。性交時、加虐を与えてくれるシバに求められたり褒められたりすると「無価値の自分に価値が出来た気がする」、「この人が価値を与えてくれる」なんて感じて、高良のことが好きなのに身体を差し出し続け、むしろ「恋人の知人と行為を持つ背徳感」に生の実感を得る。しかし、異世界感も、背徳感も、やがて慣れる。再び生への恐怖が襲ってくる。それを性・酒・人体改造で紛らわす吉高の姿は、まるで自傷行為をしているかのようだ。

 映画では、アマを殺した人物がシバであることを、ほぼ示唆しているように思う(警察が犯人の情報を語るシーンでの演出によって)。そして、ルイもほぼプロポーズしてきた男が恋人を無残に殺害したことに、感づいている。なのに、彼女はその疑惑すらも受け入れ、これからも男や世界に「流されて行く」ことを選択する。字面にするといたくグロテスクな物語だ。しかし、蜷川幸雄手がける映像、そして吉高由里子は本当にただ、雨粒が川に流されてゆくように始まり、終わる。終盤、彼女は刺青の龍と麒麟に「眼」を入れた。瞳を描いたら飛んで行ってしまうから、白目のままにしていた二匹に。彼女によると「私自身が命を持つために」。それは「背後を支配していた神を飛び立たせ自分の足で立って生きる」決意だったのだろうか。それとも「背中に住まう自身の神を捨て一生涯他人に流され続ける」諦念だったのだろうか。
 −「大丈夫。アマを殺したのがシバさんであっても、アマを犯したのがシバさんであっても、大丈夫」
WOWOWにて鑑賞)