俺俺★★★★〜「俺にありえた俺」vs「俺にしかありえない俺」〜


「年一本・評判悪いけど自分は好きだよ」邦画キタ〜〜〜。 (昨年度☆→ 王様とボク★★★★〜大人になりたくない、子供でもいられない〜 - キジルシネマ )

1.Facebookな【個性の凡庸化】

 三木聡監督は『俺俺』を撮るにあたって『ソーシャル・ネットワーク』を参考にしたと言う。納得せざるをえないコメントだ。何故なら『俺俺』はFacebook的な映画だからである。なにを言ってるかわからねーと思うが…略。
 今日は「個人発信」時代である。そしてそれは「個性の凡庸化」の可視化を避けられない。ネット界隈だと散々な叩かれようなFacebookは「似たような発言ばかりで個性が無い」と批評される。だけど、Facebookも「最初」は個人それぞれが実名で個性を発揮/発信するサービスであったはずだ。しかし、段々と「強制力」を持つようになり、どの投稿も同じような内容へと収束していった…。個性を意識すればするほど凡庸へと近づく【個性の凡庸化】。本作『俺俺』はそんな時代の物語である。
 まず「増殖した俺」を殺してゆく作業が「削除」という呼び名は、まるでSNSの書き込みを消すような軽さを持つ。最初から話そう。主演・亀梨和也の演技は、序盤、キムラ緑子に食われ、加瀬亮に食われ、高橋惠子にも…といった調子で連敗状態。これは的確な芝居である。何故なら彼が演じる主人公は「個性が無い役」だからだ。カメラマンの夢を持つも家電量販店の契約社員として人生を終わらせようとしている。「自分の力量では契約社員が相応しい」といった割り切りも感じられず、その証拠に同僚との会話は全く弾んでいないし、そもそも同居する母親ともマトモな対話をしていない。村上龍の「自立しないと他人のことなんて救えない」という言葉を借りるならば、アイデンティファイ出来ていない主人公がマトモに他人と「対話」出来るはずがない。

 【個性の凡庸化】の果てには【アイデンティティの揺らぎ】がある、のかも知れない。本作のあらすじはこうだ。「偶然、俺俺詐欺をすることになった主人公だったが、沢山の俺が出現し始めて…?」 なにを言ってるかわらねーと思うがry。序盤、主人公が出来心で行った詐欺は成功してしまう。携帯電話を手に入れテンプレートなオレオレ詐欺を行い90万円手に入れるのだ。被害を受けた女性は携帯持ち主母親である。母親であるのに、息子と名乗る別人に騙される。いとも簡単に…。主人公は恐らく「息子の声もわからぬ母親」の存在によって「確立不十分だったアイデンティティ」を更に揺らがしてしまったのではないだろうか?そこから「自己」が増殖する。沢山の俺が出現しだすのだ。

2.「ありえた俺」の残酷性

 次々と出現する「俺」は、主人公と違ってどれも個性が強く映されている。「増える俺」はそのまま「主人公にあり得た人生」の提示として機能する。藤子F不二雄的な、パラレルワールドの自分との対峙だ。カメラマンの道を諦め「自分はこのレベルだ」と自らの階級を設定し、無個性気味な家電量販店員に自分を落ち着かせていた主人公は「自分という人間もこのようになれた」例示を提示されてしまう。彼はチャラい大学生にも、警官にも、固めクールなイケメンにも、怖いヤクザにも、まじめな正社員にも、はたまたニューハーフ的爆乳な「俺」にもなれたということが突き付けられる。

 これは残酷なことだ。普通、人は自分と他人を比べ人生に諦めをつける。「あいつは凄い奴だから起業とか出来るけど俺はそんな能力無いからフリーターでいいよ」みたいな要領で。なにか夢を持ってたとしても他人をダシにして諦める/そう自分に言い聞かせるパターン。良いか悪いかはともかく、すぐ諦める。しかし『俺俺』のように「こうなれた俺」が次々出てきてしまうと「他人は○○になれるかもしれないけど俺は能力低いから」という誤魔化しは、効力を失う。だってその○○になれた自分と直面してしまうのだから(だからこそ富裕層な俺は出てこないのかも知れない。富裕層は、生まれや学歴によって可能性が大きく制限される)。例えば主人公が実は警官になりたかったとして、だけど「俺は半端者だから警察になんかなれねえ、だから契約社員で相応なの」と思ってたとしたら、目の前に「警察の俺、警察になれた俺」が現れたら超ショックである。警察になれる能力があったのに自分が挑戦しなかっただけって突き付けられる。

3.「俺にしかありえない俺」を勝ち取る俺俺戦争
 本作は、アイデンティファイ不全な主人公が「俺にありえた俺」と遭遇する中で「俺にしかありえない俺」というアイデンティティを確立してゆく話だ。沢山の「俺俺(=ありえた俺)」の中でも、自分という人間にしかなることが出来ない「己」を捜すのだ。『俺俺』とはアイデンティティ確立、自己受容までの闘争なのである。亀梨和也の複数役挑戦がクローズアップされているが、実は「たった一人の自分」の物語なのである。果たして戦争の果ては?
【※ネタバレ感想】

 『俺俺』の物語とは「母親とすら対話が出来なかった男が母親と対話できるようになる話」だ。ぶっちゃけ「俺が増殖」は主人公の夢想!!!デヴィット・リンチ監督作、『ブラック・スワン』を参考にしたらしいしネ!
 元々アイデンティファイ不全だった主人公は、俺俺詐欺が成立してしまったこと、息子の声すらわからない母親の存在を知ってしまったことで自己がほぼほぼ壊れてしまう。解離性障害にでもなったのであろう…「俺ってなんだ?俺には代わりがいるんじゃないか?」と、よくある哲学的難題に陥ってしまう。削除合戦はそのまま主人公の精神世界での葛藤。んで、上手く自己需要が出来て病が治ったのか、母親とちゃんと対話が出来るようになる。コミュニケーション不全な主人公が自立し、他人と対話が出来るようにもなる話だから、母親に「前の貴方といると自分がいない存在のような気がした」と言われるわけである。台詞がそのまま主人公の成長を表している。「母は初めて子に価値を与えた他者」という台詞通り、正に「最初」に戻っている(詐欺被害者に謝罪返金したシーンから現実と思われる…)。
 そもそも相次ぐ「俺化」は主人公がアイデンティファイが出来ていない=すぐ他人に流されることの証拠。頭突きを喰らわすほど嫌っていた上司と「似ている」と言われたあとにその上司が「俺化」してしまう展開も、同僚の言葉に流された主人公の自我の弱さが表れている。本音をぶつけ寝た相手(内田有紀)すらも「自分と見分けがつかなくなってしまう」シーンはかなり問題で、主人公がどれだけ自己需要出来ていないか、その分どれだけ他人の個性を見えていないかのがヤバ〜いかたちで出ている。
 ツッコミどころ、というか失敗点はズラズラ言える出来なのだけども…。自己増殖部分は現代的問題を孕んでおり、自己受容部分には普遍的テーマが内在されている。「現代的問題」「普遍的問題」を併せ持った上で「個人的に印象に残る台詞(芝居/画面構成/演出すべて込)」があるので自分は好き。「許せる俺と許せない俺がいるんだ」って台詞がいい。「許せない俺」を克服し「許せる俺」を吸収しよう、自信を勝ち取れ。

ヒューマントラストシネマ渋谷にて鑑賞)