クレイマー、クレイマー★★★★〜「夫婦」≠「両親」、からこその悲劇〜


 離婚した親が親権を取り合う話。〜そして、父になる〜と言わんばかりに父親成長ドラマがメインで、妻役のメリル・ストリープの出演時間は極端に少ない。その為「メリルは最悪な女」「正に最強のクレーマー」といったイメージを持たれたりもするが、個人的に彼女は可哀想だった。これは「妻が悪役」なのでなく「善良な人間同士の争い」だからこその悲劇だ!!

1.夫婦「間」で異なった夫婦「観」

 この映画が公開されたのは1979年。原作小説が出版されのはその2年前。台詞にもあるように、アメリカで女性解放運動・ウーマンリブが熱を帯びた時代。それだけあって「男女の仕事観」が重大なファクターとなっている。ウーマンリブ=女性の社会進出を馬鹿にしている夫だったが、その妻は正に"仕事"を望んでいた。そのことに気づけず無意識に伴侶を傷つけ、出て行かれてしまったわけである。仕事をしたい、という妻の申し出を「教育費も稼げないくせに」と一蹴した主人公は「夫は稼ぎ妻は家を守る」夫婦観の持ち主だったのであろう。その思想に基づいてるから子どもの面倒は見なかったし、何故離婚されたのかもわからない。この主人公の考え、当時は一般的だったのだと思う。なんか、今ほど女性の社会進出が発達していなかったから起こった「夫婦間の夫婦観の齟齬」&「破局劇」って感じで悲しい。今だと日本すら共働きが一般的だからなー。更には、ウーマンリブより前の時代だったら、妻は「自分が職を得られるわけない」と諦め家に残ってそう。
 「男は外で稼ぎ女は家を守れ」という固定概念の押し付けは多くの人を深く傷つける。クレイマー、クレイマー』の夫は妻に「お前は俺の愛する妻、そして家事育児をする機械だ」と(無意識ながら)行動で言ってのけたようなもの。男と女の仲、【夫婦】としては、相手側の申し出に聞く耳を持たなかったダスティン・ホフマンが悪目だと思う。だけれど、それは【夫婦】として見た場合であって、子を持つ親…【両親】として見ると、形勢逆転。メリル・ストリープに非があるのだ。

【ネタバレ感想】
2.夫婦≠両親

 罪無き子どもからしたら「ママは僕を捨てたけどパパは見捨てなかった」わけである。
 親権戦争の結末。それは、勝訴したメリル・ストリープが「子の為を想って」親権を譲ったのだと考える。【夫婦】の仲として見ると、彼女が家を去ったのは仕方がない。しかしながら【両親】として見ると、子どもを捨てた妻が圧倒的に問題。子どもにとってパパとママの「男女としての」ご事情なんて関係無い(まぁ病にかかっていたから致し方ないんだけど…)。息子は可哀想な被害者でしかない。ホフマンが無意識ながら行動によってメリルを深く傷つけたのと同じく、メリルは行動で「お前を捨てた」と息子に提示してしまったのである。夫婦どちらも悪人ではなく、むしろ善良な人物だからこそ、この映画には哀しみが染み渡っている。
 メリルが自分で言うように、彼女が18ヶ月に及ぶネグレクトで息子を傷つけたことに変わりは無い。そんな深い傷を負わせて、今度は生まれ育った家からも引き離すなんて身勝手にも程がある。だから、彼女は「これ以上息子を傷つけない最善の方法」として、主人公に親権を託した。過去はともかく、彼が「いい父親」となったことは第三者(友人)の言葉によっても保証されている。
 【夫婦】としては、ホフマンとメリルは円満な別れを迎えた。それは2人の表情から見て取れる。だけどそれは「夫婦関係の終わり」であって「再縁の兆し」ではないのだろう(エレベーターの扉が2人を隔てるシーンからそう解釈)。【夫婦】としては良い別れ方だけど、子を持つ【両親】としては虚しさばかり残る。出来るなら、一緒の家に住んで、子どもを育てたいだろう。お父さんお母さん、両方いることが息子の幸せなのだから…。【夫婦】としての幸せと【両親】としての幸せは、イコールではない。なんて悲しいラストなんだ。2人の悲しい笑顔が忘れられない。

☆おまけ☆
 この映画、数々の「扉」が出てくる。トイレに入る父親をドアの前で待つ息子。2人の心の距離(かなり開いている…)を表しているよう。そしてラスト、エレベーターの扉によって隔たれるホフマンとメリル。夫婦仲はもう戻ることはない…というお互いの感情を表しているんじゃないか。ついでに、ホフマンが寝室に女性を連れ込んだ朝のこと。突然息子がやってきて全裸の女性が廊下で戸惑う。コミカルなシーンだけど、ここでも「扉」をくぐり抜けている。寝室=ベッドから出たそこは「一人の男の世界」ではなく「家族のフィールド」。 (シーン画像

BSプレミアムにて鑑賞)