DOCUMENTARY OF AKB48 NO FLOWER WITHOUT RAIN 少女たちは涙の後に何を見る?★★〜何故AKB映画はバッドエンドを繰り返すようになったか〜


前田敦子のスピーチがキンタロー。にしか見えない・・・・

他の感想は、
・「ハッピーエンドからのバッドエンド」の無限ループ映画
・「前田敦子卒業」/「悲劇のスキャンダル卒業」がごっちゃになって進行する為に、忘れ去った頃に前田敦子が再登場してきて「あっちゃんまだ辞めてなかったの?」というかつての感情がプレイバックする構造
G線上のアリアが流れるシーンはカタルシス
・「センターめっちゃ凄い!!尊い!!」とゴリ押してきた割に、「センター」とやらについた知識が「舞台のゼロ地点に立つ・・・そやな・・・ただの位置やな!!(笑)」ってことしか無かった衝撃
かな!!! 
1本の映画の構成とは下記のように感じました。ついで「なんでAKB映画は年々不幸な話題ばかりになっているのか」、個人的に思ったことを書きます。

【※ネタバレ感想】

 この映画には「制限と限界」がある。それはAKBドキュメンタリーは本当に「AKB内のこと」しか映せないこと。「前田敦子トニー・レオンと共演」「大島優子出演ドラマが高視聴率」なんてエピソードは外部で起こっていることで、安易に映画の種に出来ない(AKBの利益の為に他社を巻き込めない)。つまり本作は「夢見る少女たち」の「夢の先」を映すことが出来ない。だからずっと、AKB内のハッピーエンドとバッドエンドを繰り返すのだ。【「AKBを踏み台にして自分の夢を叶える」コンセプトを掲げているのに「夢が叶った先」・「夢を叶えた姿」は映せない矛盾を孕んでいる。結果、AKB内=夢を叶えようとしている姿/夢破れた者の姿のみを延々と流す映画が出来上がる。真のハッピーエンドは「夢を叶えた姿」であるはずなのに、映画に使えるのは「夢を追う姿」「夢破れた姿」だけなのだ。】
 別にそれでもいい。元からAKBは「夢を追う少女たちを見せる」集団だ。
[参照;http://d.hatena.ne.jp/horror-house/20130202/1359776889]
 では何が問題なのか?それはまたも外仕事の多さに起因する。外仕事が多くなるに連れて、映画に映せる「夢を追う姿」が「不幸な姿」ばかりになる。今のAKBでポジティブな話題って、目立つものだと柏木がドラマ主演だとか、指原がいいともレギュラーだとか、外仕事ばかりなんだよね。その代わり内輪舞台の公演が減っている。こんなに売れて外仕事が大部分を占めているのに、物語に出来るのは内輪のこと「のみ」。外仕事で忙しいと内輪舞台での活動は少なくなるわけだから、内輪でのメンバー同士の密なコミュニケーションも減り、映画のネタになる「派手で絢爛でハッピーな物語」が少なくなる。2012年、AKBで起こった「映画の画になる派手な話題」は突発的な事象がほとんど。それに該当する多くは「卒業」・「スキャンダル」という、AKBからしたら悲しい2つ。だからAKBドキュメンタリーは年々暗くなってゆく。夢、夢、と言っておきながら、メンバーたちの本当の夢(ピンでの歌手活動や女優活動)は映せないから、今回の映画ではせめてもの代用的「夢」として「センター」を配置したのかもしれない。
 こんな矛盾を抱える循環の中では(映画を映画として成立させる為に)映画の視点は「AKBを踏み台にしてのし上がる」利己的コンセプトから離れ「AKBメンバーはAKBに献身すべきだからAKBの名誉を背負うセンターは一番の勲章」なんていう全体主義的なものへ傾向する。映画内の現象だけならいいんだけど。
(TOHOシネマズ 六本木ヒルズにて鑑賞)