ホーリーモーターズ★★★★〜神の子どもたちはみな踊る〜


「傑作」よりも「総合藝術」が相応しい。
 太宰治に「あんこであり藝術ではない」と評された表現媒体・【映画】。だけど、『ホーリーモーターズ』は藝術だ。この作品には、人間の精神世界を現実に映し出し、その美しさで人々の心を撃つ"力"がある。「人間失格は俺のために書かれたんだ…」と漏らす太宰信者中学生すら、太宰の意見に反抗し「映画もまた藝術である」と認めざるをえない、そんな"力"。それでいて=アートでありながら、きちんと「今スクリーンの中で何が起こっているか」観客が理解できる骨格。我々の内にある凍った海を斧で叩き割るような衝撃を与えながら、茶目っ気あるストーリーを十分堪能させる素敵な映画だ。


リムジンに乗っていた主人公が、ホームレスのコスプレをし始めるんですが…。
最初はコスプレ趣味を持つお金持ちの話かと思った。
「セレブの生活がお目見え」って面では『ゴシップガール』みたいなもん!!って思ったわけ!!!!!
だけど話が進むに連れてそうでもないってことがわかります。スポーツジムで美女と絡むあたりは「セレブ専用の不思議な風俗」かと捉えてたけどさ〜〜。
この不思議さは「見ればわかる」・「見なければわかんない」って感じなので、予告編で好きな感じだったら劇場鑑賞がオススメです。


墓地では狂人を演じる主人公…。
そしたらそこでファッション撮影がやっていて、変人カメラマンが「是非あの化け物を撮りたい!!」と興奮し、
カメラマンの助手(お姉さん)が嫌がりながら狂人を演じる主人公に話しかけるシーンがあった。
そのお姉さんは怖がりながら丁重な態度をとるんだけどさ。
「あの撮影されてる人はスーパーモデルなの。カメラマンは彼女と貴方2人で写真を撮りたいそうなの。ほら…「美女と野獣」みたいなコンセプトで!!知ってる??」と話しかけていた。
怖がってる割には失礼なことを発するお姉さんであった。

【※ネタバレ感想】
 「holy motors」とは「holly wood」である。多分。フィルムが消えゆく今日流行化している「変わりゆく映画を憂う映画」として見ると、ストーリーもわかりやすい。衝撃のトイ・ストーリーを見せたラストだって、あの車たちが「使い古され廃棄されてゆく映画やカメラ、撮影現場」と考えれば納得がいく。そもそも、holy moteurとは映画の撮影開始を告げる合図(日本で言う「撮影開始!」)。moteurは「カメラ」も意味する。
 だけど、それだけだろうか?何故この作品は、映画関係者でもない我々の胸をこんなにも打つのだろうか。
 それは僕ら私たちが皆「役者」であるからだ。誰かの為に、自分の為に、私達は「嘘」を吐く。それは時に「本音をあえて言わないだけ」と言われたり、「気づかい」と呼ばれたり、「やさしさ」と形容される。それが良くても悪くても、私達が仮面を被っていることは変わらない。俳優でなくとも、誰しもが「嘘」を吐いているのだ。この世は舞台で、ひとはみな役者だ。だから、リストカットのようにアイデンティティが変容させていくこの映画に衝撃を受ける。後半、嘘を吐いた娘に父が放った言葉。「お前の罰は、お前がお前として生きることだ」。その罰が果たして悲しいことなのか、それとも喜ばしいことなのか? 誰にもわからない。 そもそも「嘘」を吐くことはいけないことなのか?「嘘」をつかない人生なんて可能なのか?嘘ではない、本当の自分とはなんなのか? こんなありふれた疑問の答えはわからないまま人生は過ぎゆき、やがて誰もが「車庫」へ入ってゆく。人生に対して確固たる「結論」なんてものは出しようがないのだ。そんな途方も無い(あるいは一瞬で過ぎ去る)人生の上で、カラックスは映画に命を捧げる覚悟を決めたように感じる。カラックスは人生へ「結論」をつけたわけではないが、人生において一つの「選択」をした。それは映画と共に生きることだ。裏を返せば映画と共に死ぬことだ。鑑賞中、そんな黄金の意志が感じられた。映画という島、聖地、或いは墓地で、カラックスは踊り続ける。

「運なことに私は17歳の頃に映画と出会うことが出来ました。また、映画が発明されたことは奇跡のようだと思っています。なぜなら芸術の中で映画だけが人間によって発明された、発明されなければなかった現実であって、他の芸術は全て人間の発明ではありません。17歳の時、私はこうした映画と出会えたことを、とても幸運だと思っています。古き地上に、ある場所があって、それを私は島と呼んでいますけれども、その島を出発点として生きること、人生や死、生と死を別の角度から見ることが出来る、そこで私はその島に住みたいと望みました。私は少ししか作品を作っていませんが、自分ではその映画という島に住んでいる気持ちでいます。確かにその島には大きな美しい墓場でもあるでしょう。ですから責任があるとすれば、そこに眠る死者達に対して時々名誉を返してやることではないかと思います。けれども大変美しい墓場です。確かに映画の中には不吉な部分があり、それが重々しい部分もあるでしょう。コクトーだったと思いますが、映画とは働いている死者を撮影することだと言っていたように思います。ですから死は常に映画の中に存在をしています。また同時に、私はその島が死んで自分が生きることを想像できません。」-レオス・カラックス

(新宿シネマカリテにて鑑賞)