さよなら渓谷★★★〜「自分は幸せになってはいけない」自罰意識〜


 「強姦被害者女性が強姦加害者男性と夫婦になっている」という、気になったら最後・「中身を知りたいけど重いことは必須」…。パンドラの箱ムービー。


 集団強姦された女性を演じる真木よう子理解者であったはずの旦那に「お前は俺1人より4Pが気持ちイイんだろ!?!?」と罵倒され殴られる身体の張りっぷり。濡れ場もやりまくるわ、デリケートな役柄だわで彼女の代表作になることは必須。あまりに細すぎる手足が彼女が背負う哀しみ、又は呪いを醸し出してるようで良い。
 監督が「役者を撮りたい」が為に編集を最低限or一切無しにした映画。役者の方も、真木よう子は相変わらず男運が悪く(『運命の人』『最高の離婚』)、大西信満は相変わらず妻と気まずいSEXに走っており(『キャタピラー』)、大森南朋鈴木杏は相変わらず調べ事をし(『ヘルタースケルター』)、新井浩文は相変わらず外道クズ(『書店員ミチルの身の上話』)というあるある合戦なので各自こなれている。


 「レイプされたっつってもさぁ〜〜女の方もついていったわけでしょ?笑」と発言したことがある者は全員「ごめんなさい」な話である(実際そういう台詞が出てくる)。面白いのは、真木よう子夫婦と、二人を調べる記者・大森南朋の対比。「普通の夫婦」である大森南朋と妻の仲は壊滅的。それに反するように「普通じゃない夫婦」である真木夫妻の関係はとても幸せそうで温和。大森は事件を調べていくうちに夫である加害者男性に肩入れをする。同じ体育会有望選手から社会的に落ちぶれた、という背景にシンパシーを感じて…。そして、彼もまた妻に対しレイプまがいの行動をしたから。妻の方も罵詈雑言を飛ばすような人なのだけど、アメリカの法律だったら強姦になるような行動を大森はとってしまう。その直後、女部下とのサシ飲みで「レイプされたと言っても女の方もナンパに着いて行ったわけだろ?」とポロリしてしまう。皮肉劇かと思うくらい皮肉な映画。

・これはバッド・エンドか?ハッピー・エンドか?
【ネタバレ感想】
 今の社会、「自分は幸せになってはいけない」と思い込んでる人は多いのではないか。真木夫婦は正にそのような自罰意識の円環状態。何故真木よう子は3人の男から大西信満を選んだのか。それはしきりに彼が謝罪をしてきたから。彼にそんなにも謝罪の言葉・手紙を送らせ続ける物の正体は「自罰意識」である。男の方は罪の意識・「自分には罰が下されるべきである」十字架を持って当然なんだけど、残念ながらこの世にはあんなことをやってのけて「持ってない奴」も存在する(新井浩文)。その分を被害者の真木が背負っている。真木と大西は「自分は幸せになってはいけない」という目的が一致している。その遂行の為には「共に居ること」が最も最適な手段だった。
 「幸せにならない為」に「共に居ること」を選んだのに、時が経って「共にいること」が「幸せになる」結果を導いてしまう…なんて不幸で遠回りなラブストーリー…。二人の距離が真っ当に近づいていったことは、ビール瓶の描写で表れている。なんせ互いに夕食の心配までしあっているのだ。目的の為に互いを利用していた二人はいつしか「夫婦」になってしまった。だから真木よう子は渓谷を去ること=「幸せにならないこと」を選択する。…一見「ハッピーでもバッドでもないエンド」に見えるんだけど、これがどうも前者っぽい。原作によると「女が渓谷を去ること=女が男を赦すこと」らしい。女は「幸せにならない道」を選んだと同時に「男を赦す道」を(消去法的に)とった。真木よう子大西信満のことを好きになっちゃったってわけ。そして「赦された」ことを自認する男は「幸せにならないこと」よりも「女と幸せになること(又は女を幸せにすること)」を選んだのか、女を追うことを決める。 つまりは吉田修一の言う通りラブストーリーなんだよね。それも微かな希望を仄めかすような…。 ただ「お互い好きになること/幸せになること」が両者あるいは一方、また社会に「赦されないもの」とされてしまう時点で、悲劇であることに変わりはない。

(よみうりホールにて鑑賞)