イン・ハー・シューズ★★★〜「2番めの子」は何故口が巧いのか?〜


 キャメロン・ディアスが、男ウケしか取り柄の無いダメ女を演じる・・・っておキャメ何回目!?いや初めてかもしんないけどさ、なんか3回くらい見たことある(ような)既視感なんですけど!! しかし今回は彼女に姉がいる。おキャメとは正反対の、真面目でエリートな姉・・・。そう、これは正反対な2人、姉妹の物語なのである。男相手には口が下手な姉と、男にだけは口が上手い妹。日本でも定番なキャラ設定だね。


 「二番目の子は口がうまい」というイメージはアメリカにもあるようで、作家のカート・ヴォネガットは理由をこう語っている。

 2番目の子どもが食卓でする「今日の体験」トークは、親にとっては2度目の話題。長子が「今日こんなことがあった」と過去に話しているので、親にとってはそれほどの新鮮さ・感動が無い。よって多くの親が一生懸命話す次子に対して退屈な顔をとってしまう。そんな悲しい体験を通して2番めの子どもは話が巧くなるのだ。「今日あったこと」をストレートに伝えず、工夫して面白おかしく報告しだす。両親の笑顔を求めて…。彼ら、彼女らの話の巧さは、幼少期の食卓によって、両親の「退屈そうな顔」によって育まれるのだ…。(カート・ヴォネガット『国のない男』より)

 引用したわけじゃないので不確かだけど、内容はこんな感じ。長子からは「贔屓されて楽している無遠慮な存在」に見えても、次子は次子で葛藤や苦悩があるのだ。
 同様に、長子も次子に見えぬ「傷」を持つ。二児を育てる際、一番目の子に「弟/妹ばかり親に贔屓されている、自分は愛されてない」と感じさせてはならない……って教育論は有名。長子にとって「おちゃらけて」見える次子は、自分のコンプレックスを刺激する相手だろうし「出来るならあぁやって生きたい」と羨ましい対象だろう。まぁ素人の机上意見ですが、『イン・ハー・シューズ』ではそうだと思う。姉と妹、どちらも相手のことを「出来るならあんな風に生きたい」と心のどこかで願っている。


 「姉妹」と言っても「一人の女と女」。各人それぞれの人生を持っているのである。それを表すかのように、姉妹2人のシーンはそれほど多くない。あるアクシデントによって、傷心したキャメロン・ディアスはNYを離れ一人旅に出ちゃうし。彼女が向かった先は祖母のところで、そのおばあちゃんは大女優シャーリー・マクレーン。その存在感(とキャリア)故に「少しの休憩」で終わるはずがない相手だ。その際に家族の秘密が明かされたり、キャメロンが感動的な成長をしたりする。しかしキャメロン・ディアスシャーリー・マクレーンの祖母&孫関係は「チャーミングなラブコメ女優」の世代継承ともとれて感慨深い。どちらも「枠」にとらわれず素晴らしい演技をする女優だ。

 本作の姉妹問題は、妹が姉の彼氏と寝ちゃったりで結構深刻なのだけど、決着のつけかたが巧く爽やかだし、現実的であると思う。
【ネタバレ感想】
 「妹はとんでもない人物だし、これからも私と周りの人に迷惑をかけ続ける。でも、妹がいないと自分が自分ではなくなる」…多分こんな感じだと思う。なんかこうやって書くと(特に姉からしたら)ホラーでもあると思うんだけど、実際映画を見るととても爽やかな気持ちになれる。
 子どもの身では縁が切れなかった姉妹だからこそ「失ったら自分が自分でなくなる」ほど人格形成に大きな影響を及ぼしている。「妹あっての自分」「姉あっての自分」が好きだから、イラつくことがあっても絶交はしない。「シスコン」と言うと、今では「姉/妹を溺愛する人」という意味だけど、そもそもは「シスター・コンプレックス」。本作の姉妹はお互い良くも悪くもcomplexを抱きあっている。これこそ真のシスター・コンプレックス映画?

日本テレビにて鑑賞)