ザ・マスター見た。ミイラがミイラ取りに?


「観終わったあと、ただ楽しかった、笑えた、泣けたなどと一言で終わらせられる映画は劇場で見る価値が無い」という言葉を是とするのならば、この上なく高尚な作品。
ただ、自分でも「自分が面白いと思ったのか」「後味が悪いと思ったのか」わかりません!!
多分もう1回見ます。とりあえず妄想↓

マスターとは誰だったのか?
【ネタバレ感想】
 サイエントロジーがモデルの本作。その開祖ロナルド・ハバードはホフマンではなく主人公なのではないか?
 以下はロナルド・ハバードの人物像。
 ・第2次世界大戦の間、海軍訓練学校の4ヶ月コースに参加
 ・「金、セックス、大酒、ドラッグしか興味が無かった」と父親に言われている
 ・暴力癖があった

 ホフマンよりも、主人公と重なる。逮捕〜留置所シーンでは「主人公は感情的に暴力をふるってしまう/ホフマンは緊急時でも言葉で理性的に対応する」対比が描かれていた。ロナルド・ハバードの「宗教的技術」を行うのがホフマンであるが、むしろハバードの「人柄」は主人公が演じているのである。「宗教的技術」は真似られるものなので、むしろハバードにより近いのは主人公なのではないか?
 では、ホフマンはなんなのか?ホフマンも、サイエントロジーに似た手法を使う宗教家である(からサイエントロジーの教祖に見える)。だけど、彼の家庭ってカカア天下ではないだろうか?彼は「妻に尻にひかれている一人の宗教家」で、その技術をサイエントロジーの始祖である主人公に盗まれたのではないか。洗面台での夫婦のシーンは「エイミー・アダムスが裏で主導権を握っていること」を示唆している。ラストの主人公との対面も、妻に尻にひかれていると考えると納得がいく。ホフマンは、最初はいつも通り主人公を洗脳したが、いつの間にか自分が入れ込んでしまった。だから彼の居場所を調べ、ロンドンに招致する。しかし妻が彼を拒否した為に「残れ」と強く出れなくなった(再度の洗脳を行う素振りが無かった)。また、同業者として「主人公の教祖としての才能」を嗅ぎつけていたのかもしれない。
 ホフマンと離れた主人公は、出会った女性にホフマンの洗脳技を用いてみせる。そのあと彼が(ホフマンの技術を真似て)様々な人を洗脳し、教祖となり、今尚語り継がれているサイエントロジーの始祖となった… という読み方も出来るのではないだろうか。

 そもそもホフマンの「君は世界で最初のマスターが不要な人間かもしれない」という言葉。表面上は「マスター」であるはずのホフマンが何故それを言うのか。それは、ホフマンにとっての「マスター」は妻のエイミー・アダムスだからでは?反して、主人公に「マスター」はいない。彼は寄り添える人を作れなかったのだ。「この世にマスターを必要としない人間なんているのか?」という疑問符がこの作品のテーマであるけれど、もしもそんな人間が存在したら、その者は凄まじい孤独を持ち続け、かつ完全なる「マスター」になれる素養を持つ。だって、愛する=護る為に必死になる他人を持てないのだから。

(TOHOシネマズシャンテにて鑑賞)