ヘルタースケルター。原作との違い、芸能界の権威化、こずえが勝利者。


実写版は、観賞後の観客(特に女子高生)に「エリカ様かわいいー!あぁなりたーい!」と言わせた時点で勝ちである。
ただし「映画」として、ではなく「事件」として。突き詰めれば「醜聞」として勝利したのだ。おわり。だけどどうしても気になる箇所があるので少し考えました。まず原作との違いから。

[以下、映画版及び原作全ネタバレ]
 基本的にプロットは原作と同じ。しかし、3つ、決定的な相違点が存在する。
・作り手の芸能界への視点が違う
・こずえは消費品か、勝者か
・りりこの記者会見出欠

1.作り手の芸能界への視点、芸能界を権威とする実写版

 原作のテーマは「他人の目など行動主体にする価値は無い」だと思っている。人からの目を気にし続け「他人からの羨望」の頂点である「スター」へと登り詰めたのに、満たされなかったりりこ。大スキャンダルで芸能界から消失したのち、化け物じみた「都市伝説」とはなったものの、飽きっぽい民衆に無惨に忘れられる(未来)が示唆されている。だから「みなさん 本当に あきっぽい」という冷めたモノローグが入るのだ。「多くの人々から偶像視される芸能界の栄光」を皮肉っている。
 しかし、実写版はむしろ芸能界を権威化している。ラスト「芸能界の伝説」と化したりりこの記念写真集を栄光のように映すカット。あれ一つで作品の印象がグっと変わる。りりこが「芸能界の伝説」となったことを、検事が「大成功だ」とまで言ってしまう。りりこを堕とすだけでなく、芸能界や欲望も俯瞰しないと実写化の意味をなさないと感じるが、(美への欲望はともかく)芸能界だけは「そこで評価されるところが偉い場所」「権威」として語られている。「実写版のりりこは戻れるものなら芸能界へ戻ってきそう」という感想は、作品での芸能界の描き方にある。実は原作と映画では、最早根本的なメッセージが異なるのだ。(蜷川実花監督は『さくらん』でもメッセージをまったく逆のものとした)
  「スターとなって他人の目に敵っても救われない」けれど「芸能界は凄い」、そのような作り手の、シナリオを崩壊させるような"主張"がある限り、これはホラー映画にもなれない。

2.こずえは消費品か、勝者か?水原希子を圧倒的勝者とする実写版

 生まれもって美しさを持ったこずえ。原作ではかなり冷めたキャラクタで「芸能人は消費される商品」と言うことを十分すぎるほど自覚している。自身が消耗品だ、と享受しきっている。こじえは、誰もが羨む美貌をなんの努力もせずに持ち合わせた代償としてか、りりこより「人間的」から遠のいた人物で、羨ましいと感じる読者は少ないよう描かれている。「自分という人間が唯の消耗品であると享受しながら生きること」はある意味「戦ってすらいない」わけで、「人からの目を行動主体としなくなった」ラストのりりこの方が、自分自身の人生をめいいっぱい生きていて輝かしい…とすら思う。
 一方で、実写版の水原希子演じるこずえは「勝者」だ。この映画でただ一人の勝利者だ。その立ち振る舞いは可憐で、清らかで、自立性を感じさせる。最初から全て持っている女が最も麗しく(まるで勝利者のように)撮られる点は、大塚英志氏にも指摘されている。結局、生まれながらの美人が勝ちで、泥のように這いずってきたりりこは「芸能界で評価されたから成功」で終わりだなんて、実写版の結論はひどい。

3.りりこの記者会出欠
 そしてキモの問題。「何故沢尻エリカ演じるりりこは記者会見に出たのか?」。原作では「観衆へのサービス」として記者会見で自殺をはかろうとするも、検事に「どうせみんなは15分もたてば忘れてしまう」とさとされ、失踪。眼球だけを残して…。反して映画版ではではきちんと会見をするのだ。そして無数のフラッシュの前で自ら眼球をえぐる。そのあと外国のフリークショウに移ったよう。この違いが、3つの中で最も目立つものとなっている。さて、何故映画の沢尻エリカ演じるりりこは記者会見に出席したのか?それは冒頭で述べたように、この映画が映画でなく「事件」だからだ。
後半へつづく→ヘルタースケルター。これは映画ではない。何故りりこはカメラの光を浴びたのか? - キジルシネマ

シネマライズWOWOWにて鑑賞)