ヘルタースケルター。これは映画ではない。何故りりこはカメラの光を浴びたのか?
最初に言ってしまうと、実写版『ヘルタースケルター』は映画ではない。これは「沢尻エリカが謝罪せぬまま女優復帰する旨を宣言した」映像である。だから、ゴシップ=事件だ。それが「何故沢尻エリカ演ずるりりこはフラッシュを浴びることを選んだのか」という疑問から辿る事が出来る。 これの続き→ヘルタースケルター。原作との違い、芸能界の権威化、こずえが勝利者。 - キジルシネマ
まず、『ヘルタースケルター』はどういう話か、りりこはどのような人間か。
[以下、映画版及び原作全ネタバレ]
1.りりこについて
主人公・りりこはデブ、ブス、ビンボウ...なんて言われることを気に病む「人の目を気にする少女」であった。それは、美人になっても変わらない。美の象徴とされるトップスターになっても、緩和するどころか悪化。気がおかしくなるほどダイエットをしているのに、インタビューで「ダイエットは特にしていない」と答えながら心の中で「あたしはあんたたちの望んでる言葉を言ってあげてるのよ!」と、その行為が不本意な【他人への奉仕】である、と叫んでいる。
その「人の目を気にする」ことに、やがて「恐怖」が付随する。「忘れられてることへの恐怖」だ。他人が決める一番、とされる芸能界のトップへと登り詰めたが、だからこそ「自分のサービスが人々のお目にかからないようなること」「忘れ去られること」に畏怖を抱く。心中の恐怖を表すように「写真を撮られる度、自分が減って行く気がする」と呟く。
りりこが不幸せなのは当たり前だ。寂しいから他人の求める反応をしてしまっている、けれど、それを意識すればするほど「対象の都合の良い存在」と化してゆき、一層孤独になってゆく。不条理な円環である。自ら目標から逆走している。だから、攻撃的になるのだ。だから独りぼっちで、「私と同じところまで堕ちなさいよ」なんて言っちゃうのだ。「本心と行動の矛盾」に気がついてないからりりこは壁にぶちあたり、爆発し、人に八つ当たりをする。
原作でも映画でも、りりこが加虐するのはマネージャーとその彼氏、彼氏の婚約者、後輩モデルくらいである。他の人間にはむしろ臆病そうに「求められた反応」を示している。彼女の暴力は全て甘えと嫉妬と恐怖からのワガママにであって、暴君と言うよりただの子ども。原作のりりこに比べ沢尻の演技はやや少女性が強調されているが、岡崎京子の意志をわかりやすく映像に出した芝居は功労と言える。
ー「いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。 いつも。たった一人の。一人ぼっちの。 一人の女の子の落ちかたというものを。」(岡崎京子)
そんな「どん詰まり」で「しっちゃかめっちゃか」だったりりこのもとに、最低のスキャンダルと一人の検事が現れる。整形が報道され記者会見に出ようとするりりこに検事はこう言う。
ー「どうしても行くのか? どうせみんなは15分もたてば忘れてしまうのに」
ここで、原作のりりこは、カメラの前=記者会見に出ない。目玉だけ残して失踪する。他人の機嫌を読むこと、他人のいい様に奉仕すること、そしてその行為の最たる象徴・芸能界を"見限った"。そのあと日本芸能市場でのりりこは、やがて飽きられるであろう「都市伝説」と化する。結局りりこが見限った通りの世界だったのである。人はすぐ人のことを忘れるから「他人の目」=「他人からどう思われるか」なんてことを自分の行動主体にしてもしょうがない、ということだ。その後、海外のフリークショウに居るりりこは、あんなに嫉妬していたこずえを前にしても顔を歪ませない。生まれてきた時から美しい女を前にしても、自信ありげにただ微笑む。りりこが「他人の目」を気にしなくなった証拠である。だから、タイガーリリィの冒険はまだ始まったばかりだったのである。「他人の反応」を行動主体にすることをやめ、一人の人間として自分の意思と足で、本当の人生を生き始めたばかりだ、と言うこと。「自己受容」が出来たってことだね。
2.実写版りりこはタンカを切った沢尻エリカ
映画版では、沢尻エリカ演ずるりりこは「記者会見に出席する」。結論は同じだと思うが、何故わざわざプロットを変えたのか。脚本(ストーリー)自体は原作とほぼ同じなのに、ここだけが違っている。それは蜷川実花版『ヘルタースケルター』が「事件」だからである。あの時、カメラのフラッシュを浴びると選択したりりこは、りりこであり沢尻エリカ本人なのだ。役者にすら「お人形」を求める今の芸能人へのタンカだ。現実の沢尻が芸能界で戦うことを選択した証拠だ。彼女は「お人形」を求める「芸能界」で「お人形」にならぬまま戦うことを選んだのだ。映画版『ヘルタースケルタ―』はそのまま「沢尻エリカが今まで通りのキャラで女優をやっていく宣言」だったと言うわけ。(ま、今の芸能界では「お人形でない沢尻エリカ」を求められているから変わりは無い節もある。)
沢尻エリカが芸能界を戦場に選んだ、と言うことは、沢尻が芸能界を命を賭けるフィールドに値するとした、と同義なので、原作のように「芸能界を冷ややかに見る」視点を作品が採用するわけにはいかない。むしろ沢尻の選択をヨイショする為に「芸能界で評価されることは大成功」としなければ「企画」「事件」が成立しない。だから、蜷川実花の『ヘルタースケルター』は映画ではなく、事件なのだ。映画館で上映される沢尻エリカの決意表明を沢山の人が1800円払って見たってこと。沢尻エリカの演説に寺島しのぶや桃井かおり各位が協力したと言うこと。・・・と考えると、なんだかスペクタクルで凄い、ってお話でした。作り手自らが「この映像は映画ではなく事件」であることを選択してしまっているのに「映画」の看板を掲げているので、映画関係者は憤るべきかな、と思う。
3.タイガーリリィの冒険
ただ、女優として闘ってゆくことを決意したあとの彼女、沢尻エリカの演技は是非見てみたい。単なる「ゴシップ」で20億円動員させるだけの演技を、彼女は見せたのだ。「お人形でない女優」として市場価値を認められた沢尻が、今度はどんな演技を見せるのか?そもそも、実写版自体は「1度見たらそれでいい」という感想だが、沢尻エリカ演ずるりりこはどうも嫌いになれない。作品からはどうしても監督の悪意を感じてしまう(詳しくは大塚英志氏の同作評参照)が、沢尻=りりこ自体に対しては、劇中の桃井かおりと同じ気持ちだ。
ー「わたしはあの子、好きだったわ」
(シネマライズ、WOWOWにて鑑賞)